亀岡大郎取材班グループ 桁違いの情報収集能力を持つマスコミ集団

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読んで分かるグループの歴史

取材班前夜

昭和40年代―当社の創始者経済評論家亀岡大郎は猛烈に書いていた。折から日本経済は田中角栄総理の唱える列島改造論で、驚異的な急成長の真只中、経済記事はマスコミのトレンドそのものであった。読売、毎日、サンケイなどの日刊新聞のほか、文春、ポスト、現代などの週刊誌依頼が殺到していた。あげくの果てはゴルフ雑誌や芸能、美術雑誌までが経済記事を掲載するようになり、亀岡の自宅はまさに原稿製造工場の観をみせていた。

それでも経済記事の執筆依頼は増え続け、到底、1人の執筆者だけの力ではこなすことが不可能になってきた。ここで亀岡は先き行きについて考えるようになった。「このまま取材活動と執筆を続けていくことができるだろうか」迫りくる年齢は必ず取材活動にブレーキをかけるはずである。マスコミ世界で昔から言われてきた「足で書く」を身上にしてきた亀岡大郎にとって、取材力が落ちるということはそのまま、鮮烈な記事から遠去くこと

を意味するだろう。それならば、早い時期に個人による執筆から会社組織による集団的な取材・執筆活動に切り換えるべきではなかろうか。「みんなで感動的な記事を書こう」株式会社亀岡大郎取材班(以下亀岡取材班)はこうして、昭和49年、年の瀬も押し迫った12月、東京銀座の一角で呱呱の声をあげたのである。

通信社機能を持って取材班発足

銀座は、俗に花の銀座と呼ばれ、押しも押されぬ東京のメインストリートである。そこは世界の銀座と表現できるくらい国際的な名店、老舗が軒を連ねるビジネスの中心地でもある。多くの企業にとって銀座進出は一種のあこがれであり、ある意味では栄光の地の利ともいえるだろう。マスコミの拠点としては、まさにうってつけの土地である。この銀座で個人の著述業を法人化したとはいえ、事業が単にマスコミ各社の執筆依頼に応じるだけというのではいささか意味がない。ただの執筆集団にしか過ぎないではないか。何か亀岡取材班は他の編集プロダクションやフリーライターのグループとは根本的に趣を異にした独得の存在としてスタートすべきであろう。亀岡大郎を中心に集った気鋭の面々に、これは共通した創業の精神であった。ここで亀岡取材班は、経済記事を全国の各新聞、雑誌に定期的に配信する通信社としての機能を持つべきだと考えたのである。

幸い、亀岡大郎は新聞記者時代から金融、財界、証券の分野で活躍してきた経験の持ち主である。なかでも新大阪新聞に昭和30年から書き続けた証券記事は新しい時代の証券記事のあり方を披瀝すると共に、今日のコラム的な「投資戦術」の原型をつくり上げたことはよく知られている。新大阪はこのコラムにより多くの読者を得て発行部数を伸ばした実績を持っていた。「まず株式投資戦術の配信から始めよう」事務所のある銀座8丁目には、地方新聞の東京支社が集中していたのも好都合であった。まだファックスのなかった時代とあって、原稿を複写すると、若い従業員が手際よくこれを手分けして各新聞社へ配達したものである。当時、経済コラムを配信した新聞社は15社に及んだ。同時に、合理的で活動的な取材システムを構築した。実は、この創業時からの取材システムが、亀岡取材班のノウハウであり、マスコミ企業としての不動の骨格をなしているのである。

亀岡大郎取材班が送信契約を
結んだ全国日刊各紙

新聞名 地区 発刊部数
防長新聞 山口県 15万部
新日本海新聞 鳥取県 20万部
大分合同新聞 大分県 30万部
夕刊フクニチ 福岡県 15万部
新愛媛 愛媛県 20万部
新大阪 大阪府 15万部
大阪日日新聞 大阪府 10万部
大阪新聞 大阪府 30万部
日刊福井 福井県 10万部
岐阜日日新聞 岐阜県 20万部
名古屋タイムス 愛知県 15万部
東京中日スポーツ 東京都 25万部
日刊ゲンダイ 東京都 50万部
東京タイムス 東京都 20万部
秋田魁新報 秋田県 20万部

合理的な取材・編集のシステム作り

合理的な取材・編集システムといえば難しく聞こえるが、実際には簡単だ。もっとも単純化され、合理化されたシステムの基本は「トップに当たる」の一言に尽きる。また、これが亀岡取材班の一貫した取材姿勢である。企業のトップ。地域のトップ。業界のトップ。トップは経済・人事情報の集積地だ。同時にここで戦略が練られ、様々な決定が発信される。亀岡大郎が築いた経済界との人脈をベースに、この仕組みをあらゆる企業、業界に張り巡らせることで、どんな種類のテーマ、事件に関しても瞬時に必要な量と質の高い情報を揃えることができる。こうすることでリーディングカンパニーを、そのまま我々の情報バンクとすることも可能である。

かつて、「日刊ゲンダイ」が企画した主要企業数百社のボーナス予想を、わずか1日で集め切ってしまったことは、その象徴的なエピソードだ。こんなこともあった。日本を代表する作曲家古賀正男が死去した昭和53年、平凡出版社では「私の古賀メロディ」の特集を組んだ。この中で経済界トップのコメントを集めようとしたが、何事にも慎重だった当時の経済界では平凡出版社からの依頼に応じようとしなかった。そして刻々と締切日は迫った。「経済大国の経済人のコメントがなくては特集号の沽券にかかわる」あせった編集部から、亀岡取材班に「なんとかなりませんか」。残る時間は約3時間。「すぐ取材を開始せよ」一流財界人のコメントを集めることに成功した。

「古賀メロディは私の人生の歴史そのものです」第一線財界人のコメントが読者に深い感銘を与えたのはもちろんである。こうして集められた膨大な情報が、編集会議を経て、媒体別、あるいは紙面の切り口に応じ適切に選別、編集されていくと、ごく自然に流れは極めてシステマティックとなり、新しい紙面への企画へ連動するのである。後の多角的な自社媒体展開にもつながる一連の合理的取材・編集システムが、この時期に培われ、確率されたのである。

労働集約型企業に迫る変革の嵐

独自の取材・編集システムが構築され、亀岡取材班の前途は順風満帆に見えた。ところが、ここに意外な落とし穴が待ち受けていた。亀岡取材班の記事が好評で、多くの読者に満足感を与え、新聞・雑誌が売れるということそのものが、業務の足を引っ張りはじめたのである。これは急成長を遂げた日本経済の各所で多く見受けられた現象でもある。生産量が増え、業績が伸びると一方で公害が社会問題化してきたのもそのひとつなら、ある事業が成功すればたちまち同業者が誕生し、醜い共食いが始まるなどである。記事が話題になった次の瞬間から、亀岡取材班が光を当てたターゲットあるいは切り口を模倣する動きが、マスコミ界の中でたちまち広がっていった。

良い記事を書けば書くほど、それがそのまま他のライターの教科書となり、結果的にライバルを増やしてしまったのである。さらには、芸能ワイドショーや一般大衆誌も含め、あらゆるメディアに経済ニュースが登場し、これが氾濫するようになってきた。当然の結果、パイオニアのバリューが薄れてしまった。電話取材程度で記事を乱造する編集プロダクションが跋扈し、原稿の安売りが始まる。経済記事が次第に書きにくくなってきた。亀岡取材班の記事を載せた新聞・雑誌の中には、その付随効果として膨らんだ営業広告収入に目を奪われ、いつの間にか本来の礎である記事面のクオリティを軽視するところも現れた。

「記事よりも広告中心のほうがより利益の向上につながる」と考える契約出版社が増えてきた。こうした流れの中で、精鋭の記者を大勢抱え、原稿を1本幾らで売っていく労働集約型業務を続けていくことは、経営の圧迫につながっていくだろう。亀岡大郎は考えた。「縁の下の力持ちを任じる時代は終わった。我々の取材力を活かすには、自分の媒体を持つべきだ。」亀岡大郎は思い切って、原稿販売・通信業務の縮小を決断し、自社媒体発行の準備に入った。昭和58年、亀岡取材班は変革に向け、大きく舵を切ったのである。

スモールビジネスによる分社型経営でグループ構築へ

「経済界における総ての業界に向けた自分達の新聞・雑誌を持とう」自社媒体発行に戦略を転換した亀岡取材班が広げた風呂敷は、従来のマスコミの枠を超えた壮大なものだった。小資本のマスコミ事業の中で、自社系列の本格媒体を持つグループなど、そう簡単にできるものではない。しかし亀岡大郎には確かな自信があった。「亀岡取材班で教育された若い記者達の取材力と表現力は、必ず読者に感銘を与えることができる」今でこそ、ソニーに代表される社内カンパニー制をはじめ、分社化、事業部制の導入など、「スモール」や「独立(採算)」がもてはやされているが、当時の日本はまだまだ、「スケールメリットの追求こそ経営の効率化」といわれた時代であった。その結果、企業の業績が伸び、組織が膨張すると、これを維持するための仕事が発生し、間接部門を肥大化させるようになった。バブル経済崩壊以降、不況が進行する中で、各企業があわてて間接部門の削減や合理化、あるいはアウトソーシング(外注化)を打ち出しているが、昭和50年代半ばの時点で、亀岡取材班はこれを見事に先取りしていたのである。

スモールビジネスによる分社化のメリットは、何も「負の圧縮」だけではない。各媒体の経営者や発行人に、日頃の健闘が認められた若手記者を就任させ、しかも大幅な権限の委譲を行った。同時に社員の定年を30歳とした。30歳になってもまだグループ各社の役員になれない者は、マスコミ人としての適性に欠けると亀岡取材班では判断したからだ。また、新会社の設立に関して、親会社は原則として30%以上の株式を保有しないことにした。各社の経営者に思い切った経営戦略を展開させるためである。「次々と媒体を作り、多くの社長を生み出す」それは媒体ネットワーク作りであると同時に、取材班独得の人間作りでもあった。「自分が新聞・雑誌社の社長になる」これはマスコミ人にとって究極の夢のひとつである「皆、社長になれ」こう言われたら、俄然社員の目の色も変わるだろう。今は一介の記者でも、明日の社長を夢見て、単に記事を書くだけでなく、人間の使い方や政治的な動き、あるいは会社運営全般に興味が沸く。結果として経営者感覚が養われ、次代を背負う社内起業家を育成することになるのである。

昭和58年、亀岡取材班のデスクとして、財界取材などを担当していた亀岡一郎がまず訪問販売新聞の創刊と同時に常務取締役(後社長)となり経営全般を担当、社長には経済雑誌東洋経済のスタッフだった別所忠男を就任させた。自分達の媒体を手にした当時まだ20歳代の若手達は、連日連夜、寝食を忘れて東奔西走したものだ。新聞はたちまち軌道に乗った。早くも、昭和60年、マンション管理新聞(山本和広社長)昭和62年、ブライダル産業新聞(志賀恵子社長)昭和62年、インテリア産業新聞(加覧光次郎社長)……毎年のように会社が設立され、新聞が生まれ、新たな社長が誕生した。一社の規模はスモールでも、それぞれが業界に培った影響力と情報量を組み合わせることで、グループは結束し、増幅作用が始まった。取材・編集ネットワークは自然に形成され、とてつもないパワーを発揮するようになった。今日、グループの発行する媒体数は十余紙誌にのぼる。その躍進を支えたのは「スモールビジネス」「分社化」「社内起業家」といった、最近ようやく語られ始めたキーワードの数々である。

影響力を合い言葉に

亀岡大郎取材班グループ記者と、世の多くのビジネスマンとの決定的な違いは何か。亀岡取材班グループの記者は明らかにテクノクラートを目指している。テクノクラートとは技術をもって世の中を動かそうといういわば技術第一主義者のことである。 亀岡取材班の記者は編集の技術、表現力と、取材技術をもって世に問おうという意欲に燃えている。その教育を徹底することで、ジャーナリストとしてテクノクラートを志向させることができるのである。それには何が必要か。答えは「影響力を持つ」の一点に集約されることだろう。その第一歩として、まず影響力の持てる範囲内で取材活動を展開し、表現していくべきであるとの方針が定められた。亀岡取材班グループの各紙が、経済界の各業界向けに分類されながら、新聞・雑誌の発行を行っているのも、そのためである。いたずらに大きな世界をターゲットにしても、それは単なる蟷螂の斧に過ぎないだろう。したがって、亀岡取材班グループの発行する媒体は俗にいうところの業界紙とはいささか趣を異にしている。

グループを結集させることで経済界のなかのある分野に対して強い影響力を持つための新聞・雑誌でなければならない。影響力の裏付けはもちろん発行部数と記事の信用である。各紙は影響力によって、経済界における業界の地位を高め、業界をさらに飛躍させることを常に念頭におきながら活動を展開しているのである。その結果として、グループ各社はダイレクト・マーケティング・フェア(日本流通産業新聞・サクセスマーケティング)、賃貸住宅フェア(全国賃貸住宅新聞)、住宅リフォームフェア(リフォーム産業新聞)、ブライダル産業フェア(ブライダル産業新聞)などの催しを毎年開催していることはすでによく知られている。ダイレクト・マーケティング・フェアは池袋サンシャインシティ文化会館4473平米に約200ブース、150社の商品を展示し新しい事業開業の便を提供して連日超満員。賃貸住宅フェアは、いまや東京のみならず大阪、福岡とその開催地を増やし、東京ビックサイトでは330ブースの出展数を得た。

亀岡取材班では、よく「甲子園の野球をやろう」という言葉が使われる。同じ野球をやるにも目的は色々である。体位の向上もあれば親ぼくを目的とした野球もある。スポーツを通して得られる多くのメリットを期待した野球もある。しかし、そんな野球のなかで、甲子園に出場して全国大会で闘おうという野球はその考え方から訓練の方法など他のチームとは根本的に内容が違うはずである。つまり、影響力を持つということは取材班流にいうならば、「甲子園の野球をやろう」ということなのである。

たかが取材班、されど取材班の記者達よ

グループ各社の取材はあくまでも地味だ。時には細かい問題に執拗にアタックすることも珍しくない。大きな問題に対して大上段に構えて大鉈をふるうといったケースは極めて少ない。各官庁、大手企業のトップや担当者だけでなく、町の不動産業者や訪問販売のセールスマン、住宅地の工務店、ビジネス街の料理長など、経済ジャーナリズムの表面に出てくる機会の少ない領域の人物に対してもアポを入れている。「そんな小さな話が記事になるのですか」取材先から笑われたこともある。こうした現場の取材をくり返していく間に記者の頭の中に情報はインプットされ、それが物事を判断する物差しになっていくのである。「当社の年商は10億円です」相手が胸を張っても記者の物差しがしっかりしておれば従業員数、業務内容を聞いただけで正確な数字は判断できるものだ。故に、記者はひたすら物差しを増やすべきだと、亀岡取材班では教育される。それだけ判断力はさえてくるのである。 同時に多くの人に会うことで人間を知ることができる。人間を知ることは記事そのものに人間臭がにじみ出てくるはずだ。亀岡取材班グループの記事の最大の特長はこの人間臭にあるといえよう。如何なる記事にも人物が登場し、人物の行動や発言を通して真実に迫ろうというのである。インタビューの回数が増えるということは記者の物差しが増え、それだけ人間を知ることに通じるのである。

物差しが増えれば正確な情報も増え、これが記者の自信につながっていくことになる。その情報量と自信を背景に記者はどんな人物とも対等の立場で話ができるようになるのである。平成6年のある日、結婚産業の経営者達数10名と米国へ視察旅行に出掛けたブライダル産業新聞の北島恵子社長は、たまたまニューヨーク五番街の有名店ティファニーの前に差しかかった時、ふとオードリー・ヘップバーンのあの名画「ティファニーで朝食を」を思い出した。「そうだ、私達もヘップバーンにあやかってここで朝食をとろう」その瞬間、北島はティファニーの社長に面会を求めた。「私共の店は貴金属の店であってレストランではありません」ティファニーの社長ははなから相手にしようとはしなかった。「だが、日本で封切られたヘップバーンの名画の題名ではちゃんと、ここで朝食をとったことになっています」映画のタイトルの日本語訳がまさかそんな題名だったとは知らなかった社長も、北島恵子の説明をじっと聞いて「わかりました」と了解してくれた。翌日、ティファニーの歴史始まって以来という貴金属売り場での朝食会が開かれたのである。全国賃貸住宅新聞の記者(後「高齢者住宅新聞社」社長)網谷敏数は北は北海道から南は沖縄まで全国の賃貸住宅仲介業者と管理業者をくまなく取材した。おそらくこの業界のなかで網谷以上に業者を回った者はいないだろう。

その網谷に続けと、細かい全国行脚の取材行が積もり積もって、年鑑の発行となり、業者四季報や業界紳士録という大きな財産の構築につながっていったのもやはり地道な取材活動のひとつの成果といえるだろう。こうした足で書きながら会った人物の名刺の数を増やすというまったく地味な取材活動こそ、記者の原点なのである。しかも取材班グループは格別に記事に対してはきびしいところである。ただ正確だけでなく読ませるための迫力も要求される。「山葵(ワサビ)の抜けた寿司などノドを通らない」よく言われる言葉である。かつて亀岡大郎が新聞記者時代に、デスクから大声で催促の電話がかかってきた。「何か書け」「いま書くべき材料はありません」そのとたん、デスクは声を荒げたものだ。「今夜は夜討ちだ。経営者宅へ上がり込んで社長の背中を流してこい。記事は書けるぞ」そのころの新聞記者の気迫はいまに引き継がれているのだ。とにかく身を挺して記事と取っ組む亀岡取材班の心意気こそ山葵の効いた江戸前寿司の味である。足で書く亀岡取材班の目は22世紀に向かって虎視眈眈、獲物は果して何か、乞う御期待―。

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